目的と手段

久しぶりの更新です。

今年も学校説明会などのイベントに多くの方に学校にお越しいただき、また今もまさに日々多くの学生が一所懸命技量を磨き、勉強を続けています。

今日はその「目的」について書きます。
これから弦楽器技術の道に入る人も、またすでに入った人にも、皆さんそれぞれに目的をたずさえていると思います。

私自身もかつて「ヴァイオリン職人」になりたいと思い、ただひたすらそのことだけに毎日没頭した時期がありました。
今、その頃のことを振り返って反省することがあります。それは単純なことですが、目的を見誤っていたということです。

バイオリンの製作家、修理士、修復家、技術者、職人、いろいろな呼び方がありますが、それになることだけが当時の目的になっていました。
しかし、それらの言葉は、すべて「手段」の代名詞であって、少なくとも私個人にとっては「目的」ではないのだと後になって気づきました。
友人の中には、「十分にやっているのに、君に余裕がないのが残念だ」と言って、私が私の目的を見失っていることを指摘してくれる人もいましたが、その当時は自分でもなぜ余裕を持てないのかわからずに、ただただ手段を手に入れることに夢中になっていました。

手段が目的化するのは必ずしも常に悪いわけではないかもしれません。それほどまでに何かの手段そのものがおもしろいということだからです。しかし、ずっと目的であれるような手段というものもないのかもしれません。あるいは「過ぎたるは及ばざるが如し」と言うようにかつての私は行き過ぎていたのかもしれません。いずれにせよ、どこかで私自身が徐々にその状態に満足できなくなっていました。

転機がどこで訪れたのかは自分でもよくわかりませんが、自分がやっていることが周りの人を幸せにしていないということをどこかでずっと感じながらも虚勢をはっていたので、それが徐々に大きくなり、どこかで無視できなくなってきたときから舵を切ったように思います。

…弦楽器の職人である以上、勉強は一生続くものと思われますが、今はその頃に比べるとずっと目的(周囲の人とともに幸せであること)を大事にしたいと思うようになりました。常にそれができているかと問われれば、問題は多いのですが、それでも手段(弦楽器職人であること)を手に入れたいと思っても、目的(周囲の人の幸せ)をそこねる時には、あきらめて損をとることもよしと思えることが少しは増えてきたかもしれません。

弦楽器職人の世界では、まだまだ知られていないことや、世に行き渡っていないことがたくさんありますが、それらすべてを自分ひとりで解決しようとすることはしないことにしました。今はむしろ未知の世界を旅する同志を多く得て、旅を日々楽しめたらと思います。

かつての上司が教えてくれた言葉に次のようなものがあります。

『いつかはゴールに達するという歩き方ではだめだ。
一歩一歩がゴールであり、
一歩が一歩としての価値をもたなくてはだめだ』

(エッケルマン『ゲーテとの対話』より)

この言葉を時々思い出し、そうなりたいと思えるようになっただけでも、いくらか歳を重ねた甲斐があるというものかもしれません。